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2004/06/09

『電車男』考II-本当に大切なこと-

 『電車男』の感想掲示板や、これについてコメントしているblogなどで時々見かけるのが「『電車男』は創作である」という話です。そーいうのを見かけるたびに僕なんか、「仮に『電車男』が創作であったとして、だから何なんだろう? 世の中には本当に大切なことが見えない、可哀想な人が意外と多いんだ」と考えるわけです。んな可哀想とか決めつけンなヨ! って人もいるかも知れませんけれど、実際そうなんだから仕方がないでしょ。
(純粋に物語に興味をお持ちの方は、以下を読まずにまっすぐ『電車男』の本サイトさんまで飛んでください。そして出来れば、いや必ず、『電車男』だけではなくて他の物語もじっくり読んでほしいと思います)

 『電車男』を創作だという論調の多くは、「そんな作り話に引っかかって感動している奴はどうかしている」という文脈で、『電車男』の読者を批判しているようです。おそらく「やらせに感動するとは何事だ」と考えているんでしょう。確かに、湾岸戦争で油まみれの鳥by米軍を見てにわかナチュラリストになっちゃったり、戦場カメラマンが絵コンテ通りに撮った写真を見て思わず涙したり、そーいう例は列挙すればきりがありません。中にはその延長で、作り話であるから『電車男』は価値がない、というところまで飛躍している人もいるようです。

 僕の場合は最初に後者(作り話だからダメ)の論説に接して、え? と思ったわけです。だってこの理屈で行けば、小説なり映画なり、アニメなりマンガなり、あらゆる創作物はそれが作り話であるがゆえに無価値だってことになるんだから。じゃあドキュメンタリーや報道しか見られないのかっていうと、実は多くの情報から取材者が主体的に選択して表現とする工程を考えれば、ドキュメンタリーも報道も取材者の創作物である……そうやって考えを敷衍していくと、『電車男』が創作だから云々と批判する人々は、創作物にあふれる人間社会で正常に生活を営めない、可哀想な存在である、ということになるんですね(まぁこれが極論なのは百も承知です)。

 そこまで極端じゃなくても、「ネタあり話」に感動するのはどうなんだ、って思う人がいてもおかしくないとは思います。要は「こんなご都合主義な話、自分には信じられない!」→「こんなこと(少なくとも自分には)ありえない!」→「こんなありえない話はネタだ!」→「こんなネタを感動する奴はどうかしている!」ってことだと思うんです。でも自分にとってありえない話だからって、それだけで無理やり自分と相容れない意見を頭ごなしに否定するのって、心の狭さを自ら露呈させてるようで、やっぱり可哀想だと思うんです。それなら最初から作り話云々に言及せずに、「こんな出来すぎた話には感動できない」「こんなこと、誰にでも起きるわけじゃない」ってはっきり言った方がまだしも潔い。

 よくよく見ていくと『電車男』が「実話だから」感動した人っているの? という感じなんですよ。皆、電車男さんとエルメスさんのやりとり、電車男さんと毒男・毒女さん達のコミュニケーションを読んで心を動かされている。正直、この奇跡的な話が実話だ、というのは全体にとってスパイス程度のものだと思うんです。むしろ、リアルタイムで参加していた人も後でログを読んだ人も、それぞれに何かを感じるところがあったのは事実なわけで、そういった読者の方々が「よし、あたしも外に出よう!」「俺もカノジョを大事にしよう!」と心を動かされたことのほうが、本当に大切なことじゃないかと。
(この項続く)

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